
※本記事は実体験をもとにしていますが、プライバシー保護のため人物名や一部設定を変更しています。
「こんばんはー!」
引き戸を開けるなり、店中に響くような声が飛んでくる。この声を聞くと、私はいつも少し肩の力が抜ける。
オモシロ営業マンの兄貴だ。
一回り年上で、営業であちこちの県を飛び回っている人。
あっちの街にもこっちの街にも行きつけの店があるらしいけれど、ありがたいことに私の店もその一軒に入れてもらっている。
体も大きくて声も大きい。話している途中に突然、小林旭の物まねで歌い出す。
最初は驚いたけど、面白くて変な奴って一気に好きになった。
頭の中で考えていることが口から出るスピードに追いついて無いわりに、ちゃんと周りの人の気持ちも見えている頭の回転が速い人だった。
その日も、カウンターに座るなり、いつもの調子で話し始めた。仕事の話、行った先の街の話、誰かのうわさ話。聞いているだけで忙しくなるような時間が流れる。
ふと、兄貴がグラスを置いて、少し声のトーンを落とした。
「な、お前。仕事でうまくいく秘訣ってのがあるんだよ」
「秘訣、ですか」
「『できること』と『やりたいこと』と『のぞまれていること』。この三つが重なってるところ。そこが一番うまくいくんだ」
ただの相席の客のひとことなら、聞き流してしまったかもしれない。
でもその時の私は、開いたばかりの小さな店がいつ沈んでもおかしくないと、内心ずっと不安を抱えていた。だからその一言が、すっと胸の中に入ってきた。
今でも迷ったらここに戻っているかもしれない。
兄貴は続けて、もう一つの話をしてくれた。
「あとな、『心価』って言葉、知ってるか」
知らなかった。聞けば、江戸時代、信州松代藩の家老だった恩田木工という人の逸話に出てくる考え方らしい。
財政が傾いた藩を立て直すよう命じられた木工は、まず自分の身内を集めて、こう言ったという。
兄貴は急に声のトーンを落として、いつもより少しゆっくり話し始めた。
「『俺はこれから決して嘘をつかない。飯は一汁一菜、着るものも新しくは作らない。それくらい切り詰めて、改革に命をかける。だから――お前らとは縁を切る。これまでみたいに楽はさせてやれない。済まない、許してくれ』ってな」
家族も家臣も、驚いただろう。でも誰も離れていかなかった。
「あなたと一緒にやらせてください。私たちも同じように生きます」って、誓ったんだそうだ。
「それだけじゃないんだぞ。今度は領民を城に集めてな、
『これまで散々苦しめてきた。もう嘘はつかない。だから皆だけが頼りなんだ』
って、頭を下げたらしい。年貢を取り立てる側が、取り立てられる側に頭を下げる。逆だろ、普通」
そう言って、兄貴は笑った。でも、いつもの笑い方とは少し違う気がした。
「身内にも、よそ者の領民にも、同じように本気で向き合った。縛ったわけじゃない、脅したわけでもない。それで、両方とも誰も離れなかったんだ」
「心価ってのはな、値段じゃ買えないやつだよ。数字じゃない。あの人のためなら、って気持ちが、その人の心に残るかどうか。それだけだ」
正直、その時の私は、恩田木工という人にも、それを大事に語る兄貴にも、同じくらい胸を打たれていた。
何百年も前の、自分とは縁もゆかりもない人の生き方が、こうして今、目の前で誰かの人生の指針になっている。
それを兄貴のような人が、わざわざ小さな居酒屋の店主に話してくれている。
その事実そのものが、もう十分に「心価」だった。
なぜその話をしてくれたのか、理由は聞いていない。
でも、いつ沈んでもおかしくないような私の店を見て、何か感じてくれたんだろうと、今でも思っている。
お客さんに、値段やサービスで来てもらうんじゃない。
「お前がかわいいから、来てやったぞ」って思ってもらえばいいんだと。
この話が、私は今でも大好きだ。だって、心価はタダだから。
お金をかけなくても、誰かのために本気で向き合うことならできる。
それなら、私にもできるかもしれない。そう思わせてくれた。
「兄貴、今日は何にしましょう」
「お前に任すよ」
少し悩んで、きゅうりとみょうがを刻んで、味噌を添えて出した。
豪快な見た目をしているけど、こういうシンプルなものをぽりぽりやりながら飲むのが、兄貴は好きだった気がする。
「お、もろきゅうか。いいな、これ」
そう言って、また小林旭を口ずさみ始めた。
兄貴に出した一品:もろきゅう
材料(1人分) きゅうり1本、みょうが1個、もろみ味噌(または普通の味噌)大さじ1、かつお節少々(お好みで)
作り方 きゅうりは食べやすい大きさの棒状に切り、みょうがは縦半分にしてから薄切りにする。器に盛って味噌を添え、お好みでかつお節を散らせば完成。
切って盛るだけ。だからこそ、出すまでの時間が短くて、会話を途切れさせない一品。豪快な人にも、静かな人にも、案外どちらにもよく合う。


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