
※本記事は実体験をもとにしていますが、プライバシー保護のため人物名や一部設定を変更しています。
時計の針が午後11時を過ぎた頃、私は店内を見回していた。最後のお客さんが帰ってから、もうしばらく経つ。閉店まであと1時間。このまま店じまいしようかと、カウンターを拭きながら考えていた。
そんな時、引き戸がガラガラと開いた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、荒木さんだった。78歳、いつも夕方の早い時間に来てくれる常連さん。こんな遅い時間に見るのは初めてだ。
「荒木さん、珍しい時間ですね」
お酒とお通しを出しながら、私は声をかけた。
荒木さんは少し照れくさそうに笑いながら、カウンターに腰を下ろした。
「実はね、一度寝ようとしたんだけど、なかなか眠れなくて。それでふらっと出てきちゃったんだよ」
その一言が、私の胸に深く響いた。
眠れない夜、行く当てもなく外に出た時、荒井さんは私の店を思い出してくれたのだ。
開店してまだ一年目。毎日が手探りだった。なんで私がお店をやっているのか、なんでお金をもらっていいのか。物の対価としてお金をいただくことの意味を、ずっと悩んでいた時期だった。
でも、荒木さんのその何気ない一言で、私の心は決まった。
お酒を出すだけじゃない。料理を作って提供するだけでもない。眠れない夜に、ふらっと立ち寄れる場所。そんな居場所になれることが、私がここでお店をやる意味なんだと。
荒木さんは一人暮らし。奥さんはいない。子供たちは他県で暮らしている。会計士として長く働いてきた人だ。きっと、静かな夜の部屋で一人、天井を見つめていたのだろう。
「ちょっと待っててくださいね」
私は厨房に立ち、湯豆腐を作り始めた。
もう遅い時間だ。もうじき帰って寝るであろう荒井さんの胃に優しいものを。心だけじゃなく、体も温まってほしい。そして何より、お財布にも優しい一品を。
湯気の立つ土鍋を荒木さんの前に置いた。
「湯豆腐です。温まってください」
荒木さんは嬉しそうに目を細めた。
荒木さんに出した一品:湯豆腐
材料(1人分)
- 絹豆腐 1/2丁
- 昆布 5cm角1枚
- 白菜 1〜2枚
- 長ネギ 1/2本
- かつおだし顆粒 適量
- ポン酢 適量
- 刻み葱 適量
作り方
- 土鍋に水を入れ、昆布を30分ほど浸しておく。
- 白菜は食べやすい大きさに切る。長ネギは斜め切りにする。
- 昆布を入れたまま中火にかけ、沸騰直前で昆布を取り出す。
- 豆腐を大きめに切って入れ、白菜とネギも加える。
- 弱火で煮て、豆腐が温まったら火を止める。
- 刻み葱をたっぷりかけ、ポン酢でいただく。
シンプルだからこそ、素材の優しさが際立つ一品。遅い時間でも、心と体を温めてくれる。


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